INTRODUCTION

主演:安田顕『俳優 亀岡拓次』×監督:𠮷田恵輔『ヒメアノ~ル』×原作:新井英樹「宮本から君へ」ラストの瞬間まで怒涛のように押し寄せる、行間なしのエモーション。

未だに熱狂的なファンを持つ「ザ・ワールド・イズ・マイン」や、ドラマ化された「宮本から君へ」で再び脚光を浴びる、生ける伝説・新井英樹の傑作漫画が史上初めて映画化される。監督は、原作「愛しのアイリーン」を“最も影響を受けた漫画”と公言する𠮷田恵輔。『ヒメアノ~ル』で日本を震撼させた𠮷田演出の集大成がここにある。主演は稀代のカメレオン俳優・安田顕。伝説的な漫画の主人公を全身全霊を注いで怪演した。究極の個性派トリオが渾身の”愛”を込めて放つ、魂揺さぶる黙示録がここに誕生! また、共演陣にも実力派俳優が結集した。岩男の母にして強烈な愛憎でアイリーンを追い詰める姑・ツル役を名優 木野花が恐るべき迫力で演じる。深遠なるヤクザ・塩崎役には伊勢谷友介。謎めいた存在感で映画にサスペンスフルな重圧を与える。そして、本作のヒロインであるアイリーン役にはフィリピンオーディションで𠮷田監督により見出された新星ナッツ・シトイ。さらには、本作のために書き下ろされた主題歌「水面の輪舞曲(ロンド)」を歌唱する奇妙礼太郎が、ラストの情感を美しく、切なく包み込む。

STORY

一世一代の恋に玉砕し、家を飛び出した42歳のダメ男・宍戸岩男(安田顕)はフィリピンにいた。コツコツ貯めた300万円をはたいて嫁探しツアーに参加したのだ。30人もの現地女性と次々に面会してパニック状態の岩男は、半ば自棄になって相手を決めてしまう。それが貧しい漁村に生まれたフィリピーナ、アイリーン(ナッツ・シトイ)だった。岩男がとつぜん家を空けてから二週間。久方ぶりの帰省を果たすと、父の源造(品川徹)は亡くなり、実家はまさに葬儀の只中だった。ざわつく参列者たちの目に映ったのは異国の少女・アイリーン。これまで恋愛も知らずに生きてきた大事な一人息子が、見ず知らずのフィリピーナを嫁にもらったと聞いて激昂するツル(木野花)。ついには猟銃を持ち出し、その鈍く光る銃口がアイリーンへ……!

CAST

  • 安田顕
    安田顕/宍戸岩男
    1973年、北海道出身。演劇ユニット「TEAM NACS」メンバー。舞台、映画、ドラマなどを中心に全国的に幅広く活動中。出演する舞台、映画、ドラマでは硬派な役から個性的な役まで幅広く演じている。主な出演作として、ドラマ「下町ロケット」(TBS/15)、「重版出来!」(TBS/16)、「嘘の戦争」(KTV,CX系/17)、「小さな巨人」(TBS/17)、「正義のセ」(NTV/18)などがある。映画では『龍三と七人の子分たち』『新宿スワン』『ビリギャル』『みんな!エスパーだよ!』(すべて15)、『聖の青春』(16)、『銀魂』『追憶』(ともに17)、『不能犯』『北の桜守』『家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。』(すべて18)、『ザ・ファブル』(19公開予定)など。なお、本作は横浜聡子監督『俳優 亀岡拓次』(16)以来の単独主演作となる。
  • ナッツ・シトイ
    ナッツ・シトイ/アイリーン・ゴンザレス
    2012年にデ・ラ・サル=カレッジ・オブ・セント・ベニルド・マニラの映画制作コースを卒業後、女優として本格的に活動を始める。短編映画やTVドラマ、コマーシャル出演を経て、「Soap Opera」(14)「SWAP」(15)「Lily」(16)「Bagahe」(17)などの長篇映画に出演するほか、『ローサは密告された』(17年日本公開)で知られるブリランテ・メンドーサ監督によるNETFLIXオリジナルドラマ「AMO終わりなき麻薬戦争」(17)にも出演。「Lily」ではフィリピンの独立系映画祭The Cinema One Originals Digital Film Festivalで最優秀助演女優賞を受賞し、実力派女優として着実に評価を高めている。
  • 木野花
    木野花/宍戸ツル
    1948年、青森県出身。弘前大学教育学部美術学科を卒業後、中学校の美術教師となるが、 1年で退職。上京して演劇の世界に入る。1974年に東京演劇アンサンブル養成所時代の仲間5人と、女性だけの劇団「青い鳥」を結成。翌年に旗揚げ公演を行い、80年代の小劇場ブームの旗手的存在となる。1986年、同劇団を退団。退団後は、女優としてTV、映画、舞台で活躍、また演出家としても活動を展開。近年の主な出演作に映画『娚の一生』『恋人たち』(ともに15)、『ハローグッバイ』(17)、ドラマ「この世界の片隅に」(TBS/18)、連続テレビ小説「あまちゃん」(NHK/13)、CM「R-1」など。
  • 伊勢谷友介
    伊勢谷友介/塩崎裕次郎
    1976年、東京都出身。東京藝術大学在学中、モデルの仕事と共に俳優業に進出し、『ワンダフルライフ』(99)で映画初出演。『あしたのジョー』(11)では体重を10キロ減量して役に挑み、称賛の声を集めた。『カクト』(03)、『セイジ-陸の魚-』(12)では監督業にも取り組んだ。近年の主な出演作は『るろうに剣心 京都大火編/伝説の最期編』『ザ・テノール 真実の物語』(すべて14)、『新宿スワン』『ジョーカー・ゲーム』『劇場版 MOZU』(すべて15)、『新宿スワンII』『3月のライオン 後編』『忍びの国』『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』(すべて17)など。
  • 河井青葉
    河井青葉/𠮷岡愛子
    1981年、東京都出身。モデルを経て女優に転身。『お盆の弟』「さよなら歌舞伎町』(15)で第37回ヨコハマ映画祭助演女優賞を受賞。主な出演作は『私の男』(14)、『マエストロ!』(15)、『続・深夜食堂』『二重生活』(ともに16)、『こどもつかい』『望郷』『あゝ、荒野』(すべて17)、『レオン』『いぬやしき』(18)など。
  • ディオンヌ・モンサント
    ディオンヌ・モンサント/マリーン
    1985年、フィリピン出身。2007年TVドラマの敵役から頭角を現す。その後数多くのTVドラマに出演し、フィリピン国内で広く顔を知られるようになる。同時に映画にも多数出演、主演映画に「An Opening To Closure」(13)「SWAP」(15)などがあり、「Lunch Box」(16)では同年のSinulog Film Festivalで最優秀主演女優賞を受賞した。映画出演最新作は「Woke Up Like This」(17)、TVドラマでは「Karelasyon」「Wagas」の他、ブリランテ・メンドーサ監督シリーズの内の一作「Kadaugan」(すべて17)に主演し、精力的な活動を続けている。
  • 福士誠治
    福士誠治/正宗
    1983年、神奈川県出身。2002年ドラマデビュー。2006年、NHK朝の連続テレビ小説で主人公の相手役を務め人気を博す。その後、映像、舞台、時代劇、現代劇問わずに精力的に活動中。2009年、役者仲間と演劇ユニット「乱-run-」を結成。2016年12月には舞台「幽霊でもよかけん、会いたかとよ」で演出家デビューも果たした。近年の主な出演作は『シマウマ』『僕だけがいない街』(ともに16)、『じんじん 其の二』(17)、『blank13』(18)など。
  • 品川徹
    品川徹/宍戸源造
    1935年、北海道出身。TVドラマ、映画に数多く出演。TVドラマでは「白い巨塔」(TBS/03)のでも大河内教授役が反響を呼ぶ。近年の主な出演作品に『沈まぬ太陽』(09)、『野のなななのか』(14)、『龍三と七人の子分たち』(15)、『花筐/HANAGATAMI』『たたら侍』『彼らが本気で編むときは、』(すべて17)、『家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。』『審判』(ともに18)などがある。
  • 田中要次
    田中要次/竜野
    1963年、長野県出身。『佐木伸誘/SEEK AND FIND』(山川直人監督)でデビュー後、映画、TVドラマ出演のほか監督としても活動。2017年には『蠱毒ミートボールマシン』で映画初主演を飾る。主な出演作品に、『鮫肌男と桃尻女』(99)、『キル・ビル』(03)、『スウィングガール』(04)、『家路』(14)、『エヴェレスト 神々の山嶺』(16)、『リングサイド・ストーリー』(17)など。

STAFF

1975年、埼玉県出身。東京ビジュアルアーツ在学中から自主映画を制作する傍ら、塚本晋也監督の作品の照明を担当。映画のほかにもプロモーション・ビデオ、CMの照明も経験。06年には自らの監督で『なま夏』を自主制作し、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭のファンタスティック・オフシアター・コンペティション部門のグランプリを受賞。その後も塚本作品などで照明技師として活動し続け、08年に小説「純喫茶磯辺」を発表。同年、自らの監督で映画化して話題を集める。それ以降は、オリジナルシナリオを映画化した『さんかく』(10)、『ばしゃ馬さんとビッグマウス』(13)、『麦子さんと』(13)や、人気コミックをSexy Zoneの中島健人の主演で映画化した『銀の匙 Silver Spoon』(14)とコンスタントに発表。16年には「行け! 稲中卓球部」「ヒミズ」などで知られる人気漫画家・古谷実のカルト的人気コミック『ヒメアノ~ル』を、V6の森田剛の主演、濱田岳、佐津川愛美、ムロツヨシらの共演で完全映画化。それまでのコミカルなタッチに手加減なしのバイオレンス描写を絡めた圧倒的なスタイルで新境地を開き、国内外の映画ファンを絶叫させたのも記憶に新しい。17年には4年ぶりのオリジナル脚本となる『犬猿』(18)で兄弟姉妹のおかしくも壮絶な人間ドラマを描き、反響を呼んだ。
ピアニスト、作曲家。1949年神戸にて、香港出身の父と、日本と中国のハーフの母との間に生まれ、1歳より東京で育つ。19歳でプロの演奏家となり、ジャズ、フュージョン、ソウル、前衛音楽を演奏、ピットインなどで活動する。70年代には、ポップスグループ“Brown Rice”のキーボーディストとして全米ツアーを行う。帰国後、作編曲家、スタジオやステージミュージシャンとして活動しつつ、自らの音楽を模索。1987年、瞑想の体験を通して自己の音楽の在り方を確信し、90年より即興演奏を中心とする独自のスタイルでピアノソロ活動が始まる。92年、インディーズ・レーベル、サトワミュージックを発足。ファーストアルバム「フレグランス」がFMから火がつきロングセラーとなる。以後30タイトル近くのCDをリリース。代表作に「Doh Yoh」「エイシアンドール」「光の華」「青の龍」など。NHKスペシャル「家族の肖像」BShiスペシャル「九寨溝」、NHK「にっぽん紀行」「目撃!にっぽん」、Eテレ「こころの時代」のテーマ音楽でも知られる。超越意識で奏でる透明な音色に“瞑想のピアニスト”と呼ばれている。
奇妙礼太郎としてのソロ活動のみならず、TENSAI BAND Ⅱ(ex.天才バンド)やアニメーションズでも活動するロックボーカリスト。弾き語りで行われるソロライブはオリジナルに加え、レパートリー豊かなカバー曲を多少交えつつ、泥臭くストレートで朴訥としたロックンロールから、ラブ・アンド・ユーモアなフォークまで歌い上げ、少し泣き声混じりの切ない歌声と、むき出しのソウルで人々を魅了する。
2017年には「奇妙礼太郎」初のソロ名義としての流通フルアルバム『YOU ARE SEXY』をWARNER / unBORDEよりリリース、メジャーデビュー。今年の9月には「水面の輪舞曲(ロンド)」含む2ndアルバムをリリース予定。
1963年、神奈川県出身。大学卒業後、文具会社の営業マンとなるが、漫画家を志して退職。作品の投稿を始め、ちばてつや賞入選などを経て、89年「8月の光」でアフタヌーン四季賞の四季大賞を受賞しデビュー。92年、新米営業マンの不器用な仕事と恋の日々を描いた「宮本から君へ」で小学館漫画賞受賞。以降、中年男とフィリピン人の嫁をめぐる人々のコミュニケーション・ギャップを描く「愛しのアイリーン」、怪物ヒグマドンとテロリスト二人組みが世界を破滅へ導く「ザ・ワールド・イズ・マイン」、目の前で両親を殺され、感情のままに行動する3歳児を描く「キーチ!!」と立て続けに話題作・衝撃作を発表。リアルな人間描写力と、漫画でしかありえない世界設定で読者を圧倒する当代随一の業師である。その他の作品に「シュガー」「RIN」「キーチVS」「SCATTER -あなたがここにいてほしい-」「空也上人がいた」「なぎさにて」「KISS 狂人、空を飛ぶ」「セカイ、WORLD、世界」などがある。

PRODUCTION NOTE

1995年、ひとつの問題作が世に放たれた。新井英樹がビッグコミックスピリッツにて連載していた漫画「愛しのアイリーン」である。嫁不足の農村に暮らす非モテの四十代男性と貧しく若いフィリピン女性の国際結婚を軸に、夫婦、親子、家族における壮絶な愛の形をダイナミックに描ききった異色のラブストーリーは、恋愛や結婚への生半可な幻想を徹底的に打ち砕くと同時に、愛というものがいかに人を動かすかという強烈なパワーと可能性を示した。それから約二十年。やはり新井の漫画を原作とする「宮本から君へ」のドラマ化も記憶に新しい2018年、同作が実写映画として現代によみがえる。新井作品初の映画化となるこれはまさに「事件」。映画界における新井英樹元年である。
数々のクリエイターが影響を受け、リスペクトを惜しまない新井の作品は、これまでにもたとえば深作欣二や園子温といった監督による「ザ・ワールド・イズ・マイン」映画化の噂がまことしやかに流れたこともあったが、いずれも実現には至っていない。そんな前人未到の領域に切り込んだのは『ヒメアノ~ル』(16)『犬猿』(18)などの𠮷田恵輔監督である。二十年前に原作と出会い、人目もはばからず号泣したという𠮷田は、以来ずっと自らの手で映画化したいと熱望してきた。一方の新井もまた、原作を描いているときに『道』(54)のジェルソミーナとザンパノを意識していたというほど映画に影響を受けている。中でも𠮷田監督作品の大ファンであり、𠮷田監督ならばと全幅の信頼を寄せ、両者ともに念願叶っての第一歩となった。
そこで難航したのはキャスティングである。原作で描かれている主人公の岩男は背丈が2mもある熊のような大男だ。当の𠮷田監督も、原作通りのイメージならプロレスラーぐらいしかいないと頭を抱えていたところに、ある名前が浮上してきた。安田顕。大柄でもなく、端正な顔立ちの安田は、原作の岩男とは一見結びつかない。しかしプロデューサーの口からその名が出たとき、𠮷田監督の中で「変化球で投げられた球がストレートに入ってきた」ように何かがピタリとハマった。オファーを受けた安田もまず原作漫画との見た目の違いを懸念したが、「俺が映画で観たいと思う『愛しのアイリーン』は俺にしか作れない。それには自信がある。だからそこにのってくれたら嬉しい」という𠮷田監督の熱意によって出演を承諾。ついに岩男が決まった。
もう一人の難関はアイリーンだった。𠮷田監督も「一番不安だったのはアイリーンがこの世に存在しているかどうか」だったと言う。なんとか合格点を出せる子が見つかれば……との思いで現地フィリピンでのオーディションに飛んだ。日本から来た監督やプロデューサー陣の待つ会場に緊張した面持ちでやってくる候補者たち。しかし何人目かの後に扉を開けたその女優は思わぬ行動に出る。入って来るなり室内に顔見知りのフィリピン人プロデューサーの顔を見つけると、再会を喜ぶあまり興奮して抱きついていったのだ……日本人スタッフのことなど完全に忘れて。その瞬間、誰もが「アイリーンがいた!」と確信した。天然で無邪気でどこまでも明るくてそれが愛くるしくて人間味にあふれている、そんなアイリーンの姿がそこにあった。彼女の名前はナッツ・シトイ、通称ナッツ。彼女自身も「アイリーンと私はとても似ているところが多い。どちらも明るさと傷つきやすさの両面を持っている」と語る。そしてフィリピンパブで働くマリーン役のディオンヌ・モンサントも決定。さらに岩男の母・ツル役の木野花、ヤクザ男・塩崎役の伊勢谷友介らも決まり、いよいよ撮影に向けて動き出した。

2017年7月、新潟県長岡市にてクランクイン。地元のタクシー運転手でも道を知らないような山奥の空き家を美術スタッフが飾り込み、岩男とツルと源造の親子三人で暮らす家が出来上がっていた。岩男は四十歳を過ぎた今までずっとこの家で両親と一緒に住んでいる。家族の居間と岩男の部屋は隣り合っており、その間を仕切るのは薄い障子戸一枚。長年の間に溜まったアダルトビデオやエロ雑誌であふれた岩男の部屋を掃除するのも母親のツルである。それが日常になっている母の息子に対する距離感はやはり成人した子供に対するものとしては明らかに近すぎる。
この家から源造がいなくなり、代わりにアイリーンが新しい家族としてやって来る。源造の葬儀=アイリーンの初登場シーンだ。フィリピン帰りの短パンにTシャツ姿で現れた岩男とアイリーンは喪服の参列者たちの中で完全に浮いている。そして椅子から転倒するアイリーン~猟銃の奪い合いへと続くアクションシーンの撮影が始まった。アクションスタッフがツル役の木野に猟銃の構え方を指導する。ナッツも銃を使う芝居は初めて。銃を奪う仕草やタイミングが一つ違うと二人の力関係も逆転して見えてしまう。岩男・アイリーン・ツルが初めて顔を揃えるシーンだが、三人の役者はそれぞれにタイプが違う。憑依型で現場では常に役モードに入っている安田、カメラが回った瞬間に集中し一発目の本番テイクで「今そこで起こっている」ように見せる瞬発力がケタ違いの動物的なナッツ、細かい調整の精度が高くテイクを重ねた分だけお芝居を掘り下げていくことのできる木野。鬼気迫るシーンの緊張感が薄れないよう、異なる三人の芝居のベストなタイミングを合わせてカメラに収めるため、𠮷田監督は臨機応変にジャッジしていく。ツルに銃を向けられたアイリーンがそれを奪い、さらに岩男が取り上げ、二人で家を後にする……一連の長いカットに一発でOKが出た後、感情を昂ぶらせたナッツは泣いていた。「安田さんが本番前から岩男さんになりきって全力でぶつかってきてくれるので、それによって私の中のアイリーンも引き出されてきます。演技中の木野さんはツルになりきっているから本当に怖かったけれど、カメラが止まるとお母さんみたいに優しくて、ハードなシーンでも傷やアザの細かいことまで注意を払ってくれてありがたかったです」(ナッツ)。
岩男は怪物のように見える瞬間もある一方、あまりにも不器用で、実に人間らしく、なぜか愛おしくさえなってくるようなところもある。これは𠮷田監督ならではのユーモアのセンスはもちろん、安田が演じていることによるものが大きい。「岩男の世間からちょっとズレてしまっているところ、四十歳を過ぎて女性にも触れたことがない人生をどう演じればいいのかと考えていたんですけど、途中から自分の中の岩男とお話をしていました。現実に岩男という人はいないんですけど、ひょっとしたら町で似たような疎外感を抱えている人と知らないうちにすれ違っているような気がして。岩男もその中の一人なのかなと思うと、そういう人たちに対してきちんと責任を持って演じたいなという思いがどんどん増していったんです」(安田)。たとえばアイリーンに無理やり肉体関係を迫って大量出血するシーンでは、吹き出る血の勢いがよすぎて現場のスタッフは必死で笑いをこらえていた。その翌日は頭に包帯を巻きネットをかぶって出勤した岩男だが、その包帯は両のまぶたを圧迫するぐらい極端に目深に巻かれており、絶妙に笑いを誘う。これは安田のアイディアだという。なお、このときの岩男とツーショットで並ぶパチンコ屋の客は、この日撮影現場を訪れていた新井英樹である。
アップダウンの激しい日々の中で、福士誠治演じる寺の坊主・正宗と心を通わせるシーンは、アイリーンにとって少し立ち止まって息をつけるような時間だ。ここでは慣れ親しんだ英語で話すこともでき、片言の日本語を話しているときとはまた違うアイリーンの横顔がうかがえる。しかしナッツにとっては最大の難関が待ち構えていた。福士でさえノイローゼになりそうだったという難しい般若心教を唱えなければならなかったのだ。これにはさすがのナッツも「役者をやってきて初めて、本番中に自分からカットをお願いしたぐらい、難しかった!」と苦笑した。

夏の撮影から約半年後。2018年の新年早々に撮影隊はフィリピンへと飛んだ。お見合い相手のフィリピン女性や結婚式のシーンに登場する招待客のエキストラはすべて現地のオーディションで選ばれたが、日本人と比べて演技に照れがなく、セリフやお芝居を指示されなくても自分たちで自由に動く。それがまた極めてナチュラルだから優秀だ。アイリーンの母親を演じたルビーは大女優であると同時に演技指導のプロでもあり、𠮷田監督の意向に沿わせながら率先して子供たちの芝居もつけてくれた。すべて手持ちカメラで撮影されたフィリピンパートは特に𠮷田監督らしいドキュメンタリータッチあふれる映像となっている。
帰国すると間もなく豪雪の長岡にて冬パートの撮影に入った。夏の緑は一面の雪景色に塗り替わっている。雪の空は気まぐれですぐに表情を変える。大降りのシーンを撮っていたつもりが、切り返しのカットを撮る頃にはすっかり止んでしまようなこともしばしばだった。顔の高さにまで積もった大量の雪をかき分け、道なきところに道を作り、アイリーンの物語は終着点へと向かっていく。それはアイリーンとツルの旅だ。「夏はアイリーンと岩男の感情がメインだとしたら、ツルの感情は冬に集約されている。冬のツルでこの映画の行方が決まると思っていた」と𠮷田監督は言う。その果てにたどり着いた行方とはーー。実はこのラストシーン、脚本では数年後のある日で終わることになっており、夏にはすでにそのシーンも撮ってあった。しかし冬の撮影中に𠮷田監督は自らそれを書き換える。ツルから岩男へ、岩男からアイリーンへ、アイリーンからツルへ。いびつな愛はいつしか神聖な、尊いものになっていたのだろうか? それらはすべて最後のナッツの顔に宿っている。

「『愛しのアイリーン』ではみんなが片思いをしていると思うんですよね。ツルは岩男に、岩男はアイリーンに、アイリーンは自分の母親に、それぞれが別の相手に片思いをしていて、それぞれの思いはつながらないんだけど、思いを向けているベクトルの相手とは違う者同士が手を握った瞬間に、なぜかお互いの片思いの気持ちが少し補完されるというか。片思いが両思いになるよりも、そういう届き方のほうに愛の真実味を感じて救われるんですよ。ある「思い」のバトンを人から人へと渡していって、最終的にお客さんの元に届ける作り方もある。この映画はその感覚に近い気がします」(𠮷田)

人生は予測のつかない起伏の連続だ。嬉しい日もあれば悲しい日もある。悲しいからといって泣いてばかりもいられないし、苦しみの日々の中にも笑顔になる瞬間はあるはずだ。笑ったかと思えば泣かされて、その涙も乾き切らないうちにまた笑ってしまうような137分。怒涛のように押し寄せる愛の嵐で四方八方に心を揺さぶられ、休む間もない感情のジェットコースターに翻弄されながら、強くたくましい愛のバトンをしっかりと受けとめたい。